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2014年12月

日本語文法:自他対応接辞と動詞態

2014/12/27(土)

 この日本語文法カテゴリーでは、動詞態について思考実験してきましたが、既読記事の主旨を整理しつつ、何が独自的で新規な主張なのかをまとめてみます。
〇基本的には、
日本語動詞:文法的「態」と語彙的「態」
に記述した内容が思考実験の成果です。
〇寺村本での用語:「語彙的態」は、文法の世界で完全に定着した用語ではないらしい。別の学者では、別の語彙の単語と組み合わせて態を変化させることも『語彙的態』と見なしたりしている。
〇そこで誤解を避けるため代わりの用語として「自他対応接辞」:一つの動詞語幹から派生する自動詞・他動詞『対』対応関係を表す接辞:を今後の記述で使います。

日本語動詞:自他対応解析表
 既読記事での思考実験は、金谷武洋本や寺村本の内容により啓発されて当方なりに思考したものです。
〇金谷本、寺村本の両者ともに、「自他対応の仕組みが文法的態に反映されているはずだ」という語り口は明白なのですが、実際の動詞態の説明の中に自他対応接辞の形態を直接的に引き写そうという姿勢が感じられません。
(自他対応接辞と動詞態を関連付ける明確な説明がありません)

〇そこで、思考実験で考えた考察の指針・原則は以下の3項目です。
①自他対応を作り出す接辞が直接そのまま文法的な動詞態に使われていると推測する。
 つまり 自他対応で派生した動詞がそのまま文章に使える動詞であるという当たり前のことを明確にする。 
 だから、自他対応接辞の形態をそのまま動詞態に使って説明すべきだ。あるいは、動詞態の形態の中から、自他対応の接辞を明示して見せるべきだろう。
②動詞態の意味解釈は、文中の「主格が人」であるか、「物・自然が主格」であるかによって意味が変化するので、解釈を併記して明示すべきである。もちろん、文中の「対象が人」であるか、「対象が物」であるかによっても解釈が変わるので注意すべきである。(主格、対象格、目的格など補語との関係も要注意)
③結果として「態接辞の体系」を完成させるためには、自他対応接辞の意味、態として使うときの接辞の意味を明確にして検証に耐え得る定義にすること。
(態接辞の意味一覧表:→日本語動詞:動詞態の双対環を操作-5

〇思考実験中の「態の双対環」方式は、上記3項目を実現しようと考察した結果が詰まっています。
・浅学の実験子には表面的な考察に留まるしかありませんが、例えば②項目に関して、
・自他対応:割れる(割r・eru)/割る、では派生した「割れる」の「eru」接辞を『可能態』と見なして汎用的に動詞態として使うのが「態の双対環」方式の立ち位置です。
・太郎が瓦を割る/太郎は瓦が割れる(可能態・他動詞)/瓦が割れる(自発態・自動詞)
・自他対応:立つ/立てる(立t・eru)、の「eru」接辞も同様に『可能態』として見なせるだろう。
・太郎が立つ/赤ちゃんが立てる(可能態:自動詞)/太郎が掲示板を立てる(能動態・他動詞)/太郎が一人で掲示板を立てれる(立て・(r)eru)かな(可能態・他動詞)
〇接辞「eru」を『可能態』と見なすのは以上のような汎用性があるからで、形態も「eru」のままを明記する。(eruは下一段活用だから、~e~が語幹になるが、可能態:eruと必ず表記して説明するべきだ)
のような論理思考をしました。

(2016年追記:能動系(r)、強制・使役系(s)を一括で(r/s)と表記したが、近年は別表記に変更)
〇さらに接辞が汎用的に使える形態を詳しく説明すると、
・可能態接辞:(r/s)eru という形態になります。
・動詞語幹が子音の場合は「eru」のままで接合できますが、母音語幹の動詞に対しては、「reru」か「seru」の形態で使用します。(母音語幹に対して「rareru」をいきなり使うのは間違いです。当然のこと、意味が違います)
・母音語幹の例は、立てれる:立て・(r)eru をすでに記しましたが、
 食べ・reru/見・reru/助け・reru/逃げ・reru/変え・reru/生き・reru/出・reruなどがあります。(ら抜きではなく、ら無しの正しい可能表現です)
〇蛇足ですが、生き・(r)ar・eru/出・(r)ar・eruは受動態=結果可能態です。意味は、生きれて、生きれて、生きれて、生き抜いた結果が「生きられる」/出れると判断して出るために努力した成果が「出られる」です。
(この意味の違いを学校文法で教えられていないのですから残念ですね)
・結果態接辞:(r/s)aru
・受動態接辞:(r/s)ar・eru ←結果+可能が原意です。
〇自他対応接辞を眺めていると遠い昔の日本語の働きが見えてくるようです。

 本来ならば動詞態を調べるには、補語(主格や対象格、目的格など)と動詞変化の相互関係を考察し、比較することが必要だが、当方の手では深い検討ができてはいない。

日本語文法:日本語をどう見るか7

2014/12/23(火)

(14)述語文節:動詞態を正しく見ること

 前回に記述した「述語文節の区切り方」の不統一はそれぞれの文法学者が異なる文法体系を基にしているからでしょう。
〇文節区切りが大事なことは、文章を正しく解釈する基礎になるだけでなく、詞・辞の切り分け、単語の切り出し、品詞分けする基礎になるからですね。
・学校文法(大槻文法、橋本文法)が:「行か+せ+た+から」と切り、四語としたのは、単語:行く:を切り出す根拠に従ったからでしょう。
 現在の国語辞典での見出し単語が「行く」にとどまり、行かす、行かせる、などは見出し語にしない理由なのでしょう。態活用などを助動詞という品詞に分けて別表一覧にする方法で解決していますが、十分な解説がありません。
・いや、間違いがあります。
〇「れる/られる」の二つを同列に一緒くたにして受動態(可能、尊敬、受け身)助動詞と見なしてはいけません。
「れる」可能系統と「られる」受動系統は異なる派生ですから混同してはいけないのです。
〇100年前から現在までも「れる」と「られる」を混同、同一視した間違いの説明が続いています。
正しくは、
①「eる/れる/せる」:可能態の助動詞です。受動態とは違います。可能態として独立させるべきものです。
②「aれる/られる/される」:受動態、結果的可能、習慣的可能、尊敬、受け身の助動詞です。
①「eる」は子音語幹の動詞に接合する可能の接辞:読m・eる、であり、
 「aれる」は子音語幹動詞に接合する受動の接辞:読m・aれる→読m・ar・eる、です。
②「れる」は母音語幹の動詞に接合する可能の接辞:食べ・れる→食べr・eる、であり、
 「られる」は母音語幹の動詞に接合する受動の接辞:食べ・られる→食べ・r・ar・eる、です。
〇基本的な態接辞を音素解析すると、受動には「ある:aru」を含んでおり、きちんと区別できるのに、100年間以上も識別されずに混同されっぱなしで継続されています。
(きちんと区別する地方もありますから、心強いですが)

(15)述語文節に後続して延長するもの

 さて、述語文節ではもっと大きな問題を抱えています。
〇例の述語文節へ少し言葉を追加して、会話文の言い終わりの形式にしてみましょう。
・例:「~行か・せ・てあり・まし・た・のです・から・ね。」
〇日本語文の述語部分にはこのような活用接辞が膠着しています。
・動詞述語文:~動詞・態(+相)・措定辞・打消・時制+措置辞+接続辞+終助辞。
〇形容詞述語文でも、
・例:「~強・く・な・かった・はず・です・から・ね」
・形容詞述語文:~形容詞・措定否定・時制+措置辞+接続辞+終助辞。
〇名詞述語文でも、
・例:「~文法解説・では・ない・のです・から・ね」
・名詞述語文:~名詞+措定否定・時制+措置辞+接続辞+終助辞。
〇述語文の機能要素を連結して明示したが、「+連結」は単純なつなぎ込みを、「・連結」は語幹/語頭を調音つなぎ(挿入子音/母音)する密な接合活用です。

 日本語の構文の最後は述語文節なのですが、通常ではそれに後続して措置辞(急造語です)が付加されることが多い。
・措置辞:「~のだ、~はずだ、~つもりだ、~ようです」などの形式名詞を使って文意をまとめあげる辞。
〇角田太作:人魚構文「太郎は明日大阪へ行く予定だ」に付いて、「太郎=予定だ」だから変だと提起して世界中の言語調査をしたという。
〇普通の日本人は、時枝文法:入れ子型構文方式を知らず知らずに身につけているから、
・「太郎は←[[太郎が明日大阪へ行く]←予定]だ」と理解することができる。
 つまり、「太郎が予定」だとは思わない。
〇理由を思考実験してみる。
・述語文節で終わるなら、金谷式の盆栽型文型で説明がつく。しかし、その後に続く文節をどう仕分けますか。
また別の視点でみると、
・入れ子型に入る文節は、例えば、住所表示・年月日表示のように大きい意味の単語が最初、段々小さい意味の単語が入ります。反対に入れ子を収納する次の入れ子箱は必ず段々大きくしなくては入らない。
この矛盾を承知の上で日本語構文はできている。
長くなったので先を急ぎましょう。
〇措置辞は、述語部分が完了したあとに付加されてその文全体の「あつかい」を明示するような働きをします。
・つまり、[太郎は明日大阪へ行く]という内容がすっぽりと大きな箱:[ 予定]だ>にくるまれる。
 話し手も聞き手も同時に「予定」なのだと思い描くことになる。形式名詞と言えども思い描くものが共通になる。
・もし、「~行く」で終了してしまうと、聞き手は「行くのに飛行機か、新幹線か」などと考えてしまい、両者の間で思いが共通化しない。
〇入れ子型構文での措置辞の役割は、文全体に対する話し手の「扱い方・姿勢」を書き記した外装箱のようなもの。話の目印になる包装箱のようなもの。
・または盆栽型文に対しては、述語文節の盆栽鉢の脇に措置書きの「扱い方・姿勢」を記した銘板を立てたようなもの。
(盆栽鉢「太郎は明日大阪へ行く」の脇に「予定だ」の銘板が立てられている図を思い描く)

〇述語文節のあとに措置辞:形式名詞の看板を掲げる方法は、話し手、聞き手に共通の思いを想起させる手段であり、まさに金谷武洋本が言う:「日本語は同じ方向を共視する言語」の見える仕掛けそのものであろう。

2015/01/11(日)
追記:(16)逆に述語文節の短縮化もあり
〇角田太作:人魚構文「太郎は明日大阪へ行く予定だ」の「太郎=予定だ」に関して追記しておきたい。
・太郎は予定だ、ぼくはウナギだ、形式の構文は、逆に述語文節を短縮化したものです。
・名詞文などでの「述語:~だ」を西欧語の文法から借用して「繋辞・けいじ:コプラ」と呼んだりするが、日本語では通常の述語となんら変わりはない。繋辞だと説明すると逆に誤解を生じるだけです。
・料理を注文する状況であることが共通認識された場では、「ぼくはウナギを注文するよ」を「ぼくはウナギだ」と短縮化することはどこの国でもあることで、融通の利く言語ほど短縮化するのかもしれません。

日本語文法:日本語をどう見るか6

2014/12/16(火)

(11)普遍的な言語とは

 言語も文明のなかで生まれて、文化のなかで成長していくわけだから、言語ごとに特徴のある形態を持つものとなるだろう。
〇人類が言語を使い意思を伝え合うという能力はおそらく普遍的なのだろう。意味のある語を組み立てる法則があり、法則に従った新しい概念構造を創造していくことを繰り返している。
〇しかし、発音体系や形態構造に対して普遍性のある言語を求めても一つに絞り込むことがむずかしいだろう。つまり、発音や語の形態が直接的に「ことばの意味」を普遍的に決定したり、保証したりするものではないからです。
〇普遍的な言語運用の概念とは、伝えるべき概念内容が何であり、概念の語をどう並べ、どう活用するかに関して、人類が相互に相手方の文法則と照合し、異同を確認できるようにすることだろう。
・西欧語は前置詞を使い、日本語は「テニヲハ」などの後置詞を使う。語順が逆になり、言語の姿はまったく異なってくる。
〇それでもロジャー・パルバースは日本語の普遍的な側面を感得している。
〇時枝誠記:国語学原論:上下を走り読みした段階ですが、時枝国語学の真骨頂が少し分かったように思います。(それで、普遍性を持ち出してしまった)

(12)「時枝:入れ子型」と「金谷:盆栽型」とは相当似ていますね

 日本語の構文形式を把握するのに好都合な模型化図解として、金谷武洋:盆栽型に肩入れしていますが、時枝誠記:入れ子型も厳密な構造過ぎるのですが、基本的には文末に来る述部入れ子が包摂する前段の入れ子全体をさらに統括するという概念を表現している。
・両者の図表化概念は相当似ているものです。
例えば、入れ子を記号表記すると
・[[A]は>B]だ。>
 は、[B]だ。>の内側に[A]は>が包摂され[B]だ。>に統括される関係にある。
・述部(動詞文、形容詞文、名詞文)入れ子:[B]だ。>を盆栽鉢だと想定すれば盆栽型であるし、さらに時枝理論は大胆な解釈を展開する。述部の文節は[B]だ。>であり、[B]を述語格と呼ぶ。述語格に包摂される[[A]は>B]の全体も述語格に転換されていると見なす。
・述語盆栽鉢の中に表現で必要な文節がすべて包含されると考えれば、盆栽型と異なるところはないだろう。さらにもっと強固な盆栽鉢ですね。

(13)述語文節をどう見るか

 金田一春彦:『日本語 新版(下)』に「文法の単位」の項目がある。
2回目に日本語の文節区切りは明確で混同はないとの見方を記したが、金田一本を引用すると、
〇金田一本:現代語の文法は古典語文法に引きずられ、単語という単位をしっかり考えなかったのはまずかった。・・・学者ごとに違っていた。
〇例文:「行かせたから」に対して
・松下文法:「行かせたから」全体で一語。
・山田文法:「行かせた+から」と切り、二語。
・時枝文法:「行かせ+た+から」と切り、三語。
・学校文法(大槻文法、橋本文法):「行か+せ+た+から」と切り、四語。
金田一としては山田の案がいい、と言う。(現代語に限る。もし平安朝時代なら:行かせ+たるより、と言ったから時枝文法は古典には適うのだが、という)

 さて、文節は詞+辞で成り立つから、
・学校文法:詞・行か+辞・せ・た・から、
・時枝文法:詞・行かせ+辞・た・から、
・山田文法:詞・行かせた+辞・から
・松下文法:詞・行かせたから+辞・φ、

 このように述語は語尾活用があり文節の考え方がばらばらになる。考え方を明確にして、「詞典」の範囲、「辞典」の範囲を決めておく必要があるのですね。
〇動詞の態変化について十分な文法説明を聞かずに済ませてしまうと、後年になって調べようとしても詞典にも辞典にも十分な記載がないという困った事態になる。
〇「態の双対環」方式で動詞態を生成する過程を解説すると、
・強制態:行く+asu/rasu/sasu→行k+asu→行かす。
・強制可能態・使役態:行かす+eru/reru/seru→行かs+eru→行かせる。
・平安朝時代の「行かせたるより」:行かs+e(ru)・て+結果態接辞:ある・より→行かせ・たる・より→意味:行かせてしまってから。
(現代語でも、~てあるを~たると言えると好都合なのだが、~たら、~たり、~たれ形式が辛うじて残っているだけです。なんたることか!があるか。連体形も終止形でも使いたいですね)
〇ついでに結果態、受動態を復習します。
・結果態:依頼する+ある→依頼s+aru/raru/saru→依頼s+aru→依頼さる:意味:依頼の動作が行われて結果がそこにある状態を指す。
・受動態:結果態+可能接辞→依頼さる+eru/reru/seru→依頼さr+eru→依頼される:意味:依頼の動作が行われてすでに結果がそこにある状態になることを指す。(結果態を口語体にして情感を増やした形)
・結果態、受動態ともに能動/被動の両面を含意するから、受け身専用ではない。なにが主格になるかで受け身にも結果可能にも尊敬にも意味が対応するわけです。
〇日本語では「動作・行為」を人や物から切り離して、「動作そのもの」のやりとり、ありよう、影響を見つめる視点が強いのです。だから、動詞述語が主格から離れて文末にあっても構わないのです。
・時枝文法の述語格というのは、陳述・判断の動作性そのものを名詞的な概念として捉えた命名法なのだと推測するが、本当ならすごいことですね。

日本語文法:日本語をどう見るか5

2014/12/05(金)

(10)日本語の格助詞をどう評価するか

 「日本語をどう見るか」初回に記述したなかで、3冊の関連本が共通して日本語の特徴をあげたもの、それが「テニヲハ」の効用です。また、前回の受動態の曖昧さも補語述語の「辞」の使い方が大きく影響します。
〇日本語文の語順は補語につける「テニヲハ」格助詞のおかげで比較的自由に選べます。
・ここでは格助詞の詳細な説明をしきれませんから、考察の範囲をしぼっておきます。
〇受動態で「受け身」と「尊敬」を同時に表現する場合、どうすればいいかを考えたい。
 基本的には、「受け身」表現を優先できちんと伝わる必要があります。
・受動態が多義的であるように、「テニヲハ」も多義です。 
・例文1:甲さんが乙さんに依頼されたのですか? (依頼したのは誰ですか?)
 通常では話の前後の脈絡から、甲乙どちらが依頼したのかはわかるはずです。例文だけを読んだ人は考えすぎると判断に迷います。ひょっとすると、乙に依頼されたのか?と思い始めます。
・例文2:甲さんが乙さんにご依頼なさったんですか? (受動態をやめれば、すっきりする。結果態:なさるで尊敬を表す)
〇もし例文1が、甲が依頼を受けた「受け身」文として表現したいならば、どうしますか。
・例文1改:甲さんが乙さんから依頼されたのですか? (明らかに受け身表現だとわかる)
〇例文1を甲が依頼した「尊敬」文として表現したいならば、
・例文1別改:甲さんが乙さんへ依頼(な)されたのですか? (明らかに依頼したと分かる)
この例のように、格助詞をうまく選択すれば解決しますね。

 格助詞選択の法則を思考実験してみました。
〇例文で使っている「辞」を調べる。文法的に通常、動作主になりうる「辞」を能動2、通常、被動作主になる「辞」を被動2と印を付ける。
・なお「が、に、される」などの「辞」は多義なので、/の右に1単位の被動・能動を付記して、動作方向が反対側への意味合いも含んでいることを明示しました。
・~が:→→/←(能動2/被動1)
・~に:←←/→(被動2/能動1) 別表記:後段で「~に:↓↓/↑ (被動2/能動1)」を提起。
・~を:←←  (被動2)
・~から:→→ (能動2)
・~へ:←←  (被動2)
・~される:←←/→(被動2/能動1)
・~なさる:→→(能動2)
・例文1:甲さんが(→→/?←)乙さんに(←←/?→)依頼された(←←/?→)のですか?
 (疑問文だから余計に誤解を生じやすい)
・例文2:甲さんが(→→/←)乙さんに(←←/→)ご依頼なさった(◎→→)のですか?
 (誤解の余地なし)
・例文1改:甲さんが(→→/〇←)乙さんから(◎→→)依頼された(〇←←/×→)のですか?
 (方向性が確実になり受け身表現だとわかる)
・例文1別改:甲さんが(〇→→/←)乙さんへ(◎←←)依頼(な)された(←←/〇→)のですか?
 (方向性が確実なので明らかに尊敬形だとわかる)

 例文1のなかにある3つの「辞:~が、~に、~される」がそろいも揃って「動作の両方向性」を持っているから、意味の方向性が曖昧になるわけですね。
〇特に「~に」は「その場所にいる」、「その人に託す」とかでは、そこからの動作方向が確定しにくいので要注意ですね。(~によって、~に対して、~に関して、~のために、のように意味を補強したりするが完璧ではない)
・~に:↓↓/↑ (被動2/能動1) =辞「~に」は、目標の位置を言明するだけで、そこでの動作の実際方向を表すわけではないと言う概念を記号化しておこう。
・本来は、「~に」と表現する場合に、構文全体を想定して「~へ」方向か、「~から」方向かを考えて辞を選ぶという習慣づけの学習が必要なのですが、できていないかもしれません。
・東京弁を話す人は「~から/~へ」をもっと活用すべきなのでしょうね。

日本語文法:日本語をどう見るか4

2014/12/03(水)

(8)日本語の動詞時制をどう評価するか

 日本語動詞の時制体系は、絶対時制(過去・現在・未来を時計通りに表現)ではなくて、相対的な完了形(出来事の完了を表現)と未完了形(未完了の出来事、動作)を区別して表現することで成り立っています。
〇時制の簡単な例文:
・食べる:未完了(現在または未来に食べていてもよい。相対的には過去の未完了の出来事を表現する)
・食べた:完了(過去ではなく、食べ終わった直後でもよい)
・「よかったら、おかわりしてください」:(一杯目が完了したら、または、良いと判断を完了したら、おかわりをしていいですよ)
・「食べる前に手を洗いましたか」:(食べた前にとは言わない。絶対時計に縛られない)
〇絶対時制よりも相対時制のほうが日本人には分かりやすいし、それでも絶対時刻をきちんと守る習慣は健在ですから、何も問題ありません。

(9)動詞態の「開始」と「結果」を感得してほしい

 時間的な相対関係を表現する方法は、動詞の態活用でも使われています。残念ながら多くの方には見過ごされていますが、動作の「開始」と「結果」を動詞態の形式で表現しています。
〇動詞態で開始/結果を表す:
・可能態=開始可能態。
・結果態+可能接辞=受動態=結果可能態。
〇簡単な例文:
・食べれる:開始時点での「可能性」を表明する。「開始可能態」と覚えるとよいでしょう。
・食べられる:動作した「結果の可能」を表明する。受動態が表す「可能」とは「結果可能態、習慣的可能態」なのです。
・「大食いの彼なら、3人前くらい食べられるよ」の食べられる:「結果可能態=習慣的可能態」を意味しています。結果的に食べきれるのを判っていて、食べる前は「食べれる」というべきだ、とは言いません。「食べられる」は結果を見通して言う言葉です。
(受動態の用法では、受け身でもなく、尊敬でもなく、結果可能・習慣的可能を表現することが多い)
・ですから、開始可能態「食べれる」と結果可能態「食べられる」を混同してはいけないのです。
〇学校文法には、開始可能態・結果可能態の区別認識がまったくありません。結果態の認識がないからです。結果態の接辞は、+(r/s)aruで、食べるの場合は「食べらる」です。文語体っぽいので単語としては使われませんが、可能接辞を付加した「食べられる」と結果可能態=受動態にして使われているのです。
・つまり、動作主が行う「食べられる」は、受身ではありません。尊敬表現と同様に動作主自身が行う動作を表現したものです。(もちろん尊敬の意味ではなく、一般の人が普通の習慣的動作をやり抜いたときの表現として使います)
・「食べらる」:結果態が文語体っぽいとの理由で「食べられ・る」と口語体化になったのでしょう。
・「食べさす」:強制態が文語体っぽいとの理由で「食べさせ・る」(強制可能態=使役態)と口語体になったのも同じ理由でしょう。(同じ接辞:(r/s)eruが使われている)

 「食べれる」と「食べられる」の違いを感得することが可能なのだろうか、いささか心配になります。
〇「態の双対環」思考実験の成果で1、2年前から確信を持てるようになった概念ですから、「開始可能態」と「結果可能態」を感覚として多くの方々に納得していただく段階はまだまだ遠い先でしょう。
・例えば、本多勝一『実戦・日本語の作文技術』:朝日新聞社:1994年9月15日第一刷 では、故郷の伊那弁で「見られる」は受け身であって可能の意味はなく、「見れる」は可能だけであって受け身の意味はない。ところが東京弁の「見られる」は、受け身と可能の双方を意味するから区別がつかず、・・・と記述がある。
・関西語では「熱うて飲まれへん」という打消し型の「結果不可能態」をよく使うので、おそらく双方の違いを感得しているでしょう。今のところ、関西人文法家の解説などで「結果態」、「結果可能態」を見たことがないので残念です。
〇どの地方でも「食べれる、見れる、飲める」に対しては「可能の意味で理解する下地」がすでにあると思える。強烈に「ら抜き言葉」だと言い立てるからには、「可能」の意味での使用例であることは観察できているわけですから。また、「食べられる、見られる、飲まれる」が受け身を意味する場面での使い方に対しても、異論は上がらないだろう。

 では、残る問題は「尊敬」と「結果可能態」との区別判断ができないと言うことだろうか。
・本多本では「見れる」を正常として、「見られる」形態のほうを「ら入れ言葉」と名付け多義性を問題視している。
 実際に公の場で問題になるのは、敬語表現が必要で、なおかつ受け身表現もしなければならないときです。
つまり、「受け身」と「尊敬」の両立ができるだろうかということ。
〇受動態「食べられる、見られる、飲まれる」を表現する場合には、受け身の意味では被動作主が主格補語に想定され、尊敬態・結果可能態の意味では動作主が主格補語に想定されるから、必ず補語として動作主、被動作主もしくは対象補語・目的語をそろえて言明するのが正しく理解してもらうための礼儀なのだろう。
・文法的には「受け身」表現を優先して解釈できるようにしたいですね。これの解釈には「辞」:格助詞を考察する必要があります。
〇日本語がどう見えるか、ではなく、日本語をどう見るか、という視点で疑問を解消していきたいですね。

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