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2016年2月

2016/02/28

日本語文法の論理2

2016/02/28(日)

 『日本語を考える 移りかわる言葉の機構』山口明穂:2000年、通読中。
これで山口本3部作を集中的に走り読みできた段階です。
日本語の歴史は、政治・文化の流れの中で何度か起きた遷都や政治体制の変革などに付随しての言語論理の変革も起きてきた。奈良・平安時代の古語の論理から江戸・明治の近代語の時代に向かい言語論理がゆっくり変化してきて、西欧語の論理も表層的に少しずつ入り込んできている。

★山口本では、日本語の論理が独自に生まれて以来の系譜をたどり、今も変わらぬ形式・形態の姿で伝承される日本語の論理を拾い上げようとしている。
構文例:前回に述べた「客観投射面と主観投射面の関わりの中で解釈する」に該当する。
〇「水が欲しい」、「水を欲しい」が江戸時代でも両用されていた。
〇「仕事がおわる」、「仕事をおわる」、「仕事をおえる」などの混用もあったろう。
日本語の文章としては、いずれも日常的に使われている構造です。

★日本語文法の論理は、「客観投射面と主観投射面」に対応した「両用概念」が必要です。
西欧語の「主語」、「目的語」の概念は一面的ですから、それに従った解釈を日本語文に適用しても一面しか解決できません。
「水がおいしいφ」、「水が冷たいφ」、「水が飲みたいφ」、「水がこぼれるφ」、「水が飛んだφ」などは、すべて「が・助詞によって「水」が後続の述語の意味・事柄をもたらすものだ」と話し手が判断していることを表現する。
つまり、「わたしは(水が欲しいφ)と感じている」→水・客観-が・主観(もたらす)-欲しい・客観-φ・主観、と解析すれば、納得できるでしょうか。
「水がこぼれる」→水・客観-が・主観(もたらす)-こぼれ・客観-るφ・主観 と解釈。

〇山口本の記述では、『「が」は主格の格助詞ではない』とある。西欧語でいう「主語」に該当するのではないとの認識です。
・江戸時代の国学者、富士谷成章、本居宣長などの研究を引き、特に富士谷学説に共感する。
★富士谷『あゆひ抄』では、「~が」の働きを述べていわく、
 「何が」は、その受けたる事に物実(ものざね)をあらせて、それがとさす言葉なり。
(ものざねは、なにかを生み出すもとになるものをいう。つまり、生み出すもと:種子である)
・つまり、ひらめきで言えば、日本語「が格」で表すものは主語でなく、『種語』だということですね。
★また、山口本記述に指摘:国広哲弥『日本語学』6の7「意味研究の課題」の中で、
「それじゃあ、私お先に失礼します」と「それじゃあ、私がお先に失礼します」との場面状況の違いを提起し、「が」が純粋な主格とは言えないとの論考がある。

★日本語に一面的な主語の概念は不要です。
〇時枝誠記『国語学原論』で言語存在条件を述べ、主体・素材・場面の三者の関連を指摘し、日本語構文を詞辞入子型:構文の自立語:詞は客観概念であって、それに付属語:辞・「がにをては」助詞、助動詞などが付属してはじめて「主観概念で入子に統括できる」ことで表現が成立つとした。もちろん、無形態の辞:φ辞を想定することですべての場合を形式化できる。
〇「客観投射面と主観投射面の関わりの中で解釈する」と提起した時枝誠記でさえも、西欧語の「主語」にとらわれると判断に迷いが起きる。
・「犬が吠える」→犬が:主語、「仕事がつらい」→仕事が:対象語 と区分する道を選んだ。
★いま、山口本では、犬が、仕事が、の「が格」はともに、述語の意味を生み出す根源を示すものと話し手が判断しているのだと提起しています。
・つまり、犬が、仕事が、ともに「述語陳述の意味を生み出す種・実体」なのです。
(「饅頭がこわい」、「今度はお茶がこわい」もよく分ります。『種語』と思えば「主語」はこわくない)
山口本は時枝論理の枝葉に同意しない部分があるが、辞へのこだわりは透徹しているようだ。

〇今泉本『日本語構造伝達文法』では、「実体」とその「属性:動詞述語、形容詞述語、名詞述語」の結合構造を基本モデルとしているので、実効的には「主体・主語」が暗黙のうちに不可欠要素として設定される。説明文法の宿命かもしれません。
(もっとも、主体・主語を3区分・8通りに分けて詳述。また、実体と属性の関係概念は深層レベルにあり、言語意識の主観・客観の混在する状態にあると言うべきか)
・しかし、山口本ではこの文法論理について言及はないですが、「西欧語流の実体・属性モデル形式に説明の基礎を置けば、日本語の論理から外れてしまう」と感じるでしょうね。
〇また、三上章、金谷武洋『日本語に主語はいらない』に一理ありと触れるが、深入りしていない。

2016/02/12

日本語文法の論理

2016/02/12(金)

 最近は日本語文法の再勉強を目指して、古い本を読み始めています。
もちろん、新しい本も読んでいます。
〇今月初めに『日本語のしくみ(1)~日本語構造伝達文法 S~』今泉喜一:揺藍社:
 2015年12月24日発行 を著者ご自身からの謹呈部をいただきまして、読み終っています。
 昨年、今泉研究会に希望参加させていただいていた時期に、先生は上記の「日本語構造伝達文法」の入門書を執筆なさっていました。入門書に載せるための演習問題を私にも渡され、解答例になるかも知れないから、まじめに考えて回答してと言われ、毎回の研究会で進捗中の下書原稿をいただいていました。
結果的には、私の興味が「態の文法」にしか向いていなかったので、回答も「態」の範囲でしかできませんでした。やはり、私の知識範囲がもう少し広がる段階を経験して、考察を仕直すことが必要かなと感じました。

★「態文法」に限定しても、さらに強力な説得力をもつ説明方法が必要だと反省しています。
〇日本語構文を捉えてこれを図形表示する方法には、(現状の私の知識範囲で述べれば)
①時枝誠記:『国語学原論』1941年:→詞辞入子型(風呂敷型)
②金谷武洋:『日本語に主語はいらない』2002年:→盆栽型(旗付き盆栽型)
③今泉喜一:『日本語構造伝達文法』2000年:→構造立体モデル(実体属性コマ型?)
④僭越ながら態に限定で「態の双対環」:2015年:→補述スタック型
などがあり、それぞれ独特の文法解釈を反映している。
特に、③『日本語構造伝達文法』には古代からの語形変遷(膠着語ならではの活用変化)を分かりやすく説明できる工夫・仕組が盛り込まれている。

★最近の読書から素晴らしい発見ができたので、次に記します。
・『展望現代の日本語』佐藤武義・編著:1996年、通読済み。
・『日本語の歴史』山口明穂・他3名:1997年、通読済み。
・『国語の論理 古代語から近代語へ』山口明穂:1983年、通読中。
・『日本語の論理 言葉に現れる思想』山口明穂:2004年、通読中。
特に通読中の『国語の論理』、『日本語の論理』に感心しています。

 山口本によれば、「ひらがな解析」手法に留まる立場のようで、研究手法は国学本流を歩まれている。西欧語文法にはめ込むのではなく、日本語の論理から生まれるべくして生まれた構文を日本語の論理で解釈するという手法を貫いている。
★山口本には、時枝誠記の詞・辞の対向概念(詞=自立語・客観概念/辞=付属語・主観概念)を肯定する見解もあり、また反対に、受動・使役の接尾語を詞あつかいではなく辞あつかいを優勢論理として薦める見解もある。
(詞辞の対向概念そのものよりも、主観概念による論理の包括力増大を肯定するようだ)
・残念ながら山口本には「構文論理の解釈図解形式」での説明がないので、自分で空想図解実験をしていたら、新しい図解がひらめいた。
・前記書籍の図解「①~③、④までを統合する」ような新しい図解の糸口ですね。
★閃いた図解形式を実際描写するのは今後に回すが、この概念の素片を記せば次の如し。
(最近、古文の解説を読んだりの影響か、思わず如しが出てきます)
★日本語の構文解釈、文法の理解には、詞の客観投射面と辞の主観投射面の2面(最低でも)の関わりの中で説明、解釈されるべきであること。
(西欧語の文法が客観投射面でしか解釈しないことに、日本語をはめ込んではいけない)
・投射面の意味は「構文を伝えるために映し出すべき映写幕面」を類推したもの。
 日本語の場合には「表層面に客観概念の投射面があり、下層面に主観概念の投射面が機能している」という構文構造であることを深く理解に達するといいですね。
(これは「建て前」と「本音」の2面があるという意味ではありません)

つづく

2016/02/01

日本語動詞:新解釈「態の文法」を求めて3

2016/02/01(月)

★「態の双対環」命名の理由:
①態の双対:「態の対向関係を表現する形態が2組ある」という意味です。
 :能動系では、「原形態←・→受動態」と、「結果態←・→可能態」の2つの対向関係を
  縦軸と横軸にして「4つの態が環状に並んだ構成」と想定して命名しました。
②重要な態接辞に光をあてる:態接辞(:aru、asu、eru)を重用したい。
 :結果態:「aru」は文語体受動接辞であり最重要。「ある」は日本語動詞の基本です。
 :強制態:「asu」は文語体使役接辞であり最重要。「あす:他を律する」←「ある:自律」。
★:可能態:「eru」は万能接辞で重要。「動機あり:as的」、「動機なし:ar的」。
 (例:取れる:動機あり→動作可能、動機なし→自・自発態:壊れてとれてしまう)
★「結果態←・→可能態」の対向は、可能態「:動機ありas的、意図しての動作可能」
  の側面を想定して、これと結果態「:ar・動作の結果、見通し」と向き合う関係を
  表現したものです。(動作結果←・→動作開始のアスペクト的対向関係とも類推できる)
③3系統の「双対環」と相互への飛び移り:
 :能動系と強制系・使役系はそれぞれ別の「双対環」を構成し、通常では相互の「双対環」
  から他の「双対環」へ飛び移ること少ないです。
 :それでも、能動系受動態→強制態・使役態、使役受動態への飛び移り(:打たれさせる)
  や、強制系可能態→使役態への飛び移り(:移s・as・eru→移s・aseru)は
  当然にあり得ます。
 :ただし、二重可能態や二重受動態は事態を混乱させるだけで意味不明になります。
  また、強制、使役は人を何段階も介して他律動作をさせるなら、二重使役、三重使役も
  原理的には可能です。ただ、文章を混乱させるだけですから、単文内での多段使役の表現
  は控えるのがよいのでしょう。
以上が「態の双対環」方式の提案説明です。

 最後に「態の双対環」の深層を整理しておきます。
①母音語幹動詞には、語尾に能動系:「・r」、強制、使役系:「・s」を挿入することで
 子音語尾化して、母音始まりの態接辞と接続・膠着して態動詞を生成できます。
②動詞語尾子音で「rとsを」交替させて自他交替とするのは、古くから日本語文法で行われ
 ています。
③自他交替文法により、結果態:aru→強制態:asuへと「r/s交替」が働いたもの
 と思われます。
④動詞述語の場合:たすk・aru、かさn・aru、きm・aruなど「aru」形態の
 ままで文法化されています。(動作がある、動作結果があるの意味です)
 一方、
 :名詞述語の場合:これは日本語d[e]・a[ru]。=日本語だ。
 :形容詞述語の場合:これ、うまk・a[ru]。=これ、うまか。(九州弁)
 と変形簡略化されますが、重要な役割を果しています。
⑤「態の双対環」では、可能態の生成にも子音・母音語幹で差別しません。
 :見れる、食べれる、来れる、着れる、考えれる、起きれる、落ちれる、降りれる、
  伸びれる、生きれる、上げれる、変えれる、開けれる、続けれる、逃げれる、、、
 これらはすべて正式に可能態「:意思段階の可能」として認めるべきだと提起します。
 (ただし自発系では:切れれる、割れれる、折れれる、倒れれる、こぼれれる、など形態は
  可能形的ですが、動作意思軟弱な意味不明の単語になります)
⑥「態の双対環」では、受動態によって表現する可能は「:結果可能、実績可能」であると
 意味付けします。
 :行ける:個人意思で可能と推測 /行けない:意思が起きない不可能。
 :行かれる:結果洞察できる(習慣的な)可能 /行かれない:(行きたくとも)人為を
  超えた不可能。
⑦受動態が「受身、尊敬、結果可能、自発」など多様な意味で使われる理由:
 「態の双対環」では、受動態接辞:areruが、結果態と(可能接辞)の合成による機能
 が深層原理として共通に働いているからだと解釈します。
★受動態は「:動作結果で実現する状態を表現する」のが原理的役割です。
①動作主体を受動文の主格で表現すると、「尊敬、結果可能・実績可能、自発」を意味しま
 す。(ただし、動作主体が発話で「尊敬」を言いません、第3者が発話する表現です)
②被動作者主格で受動文を構成するとき、「受身(直接、間接)」を意味します。
③事態主格で受動文を構成するとき、「結果可能・実績可能、自発」を意味します。
★受動態は「:動詞原形+areru」です。(西欧語が:be+過去分詞と時制を持ちます)
 受動態の時制も完了に縛られません。将来を洞察しての動作結果予測を表現できます。
★受動態の接辞:areru:は、あれる、在れる、有れるに通じます。
 (西欧語が:have+過去分詞で表現するのも含み)「動詞原形+有れる」は動作結果の有れることを表現します。
 つまり、受動態は結果的に実現した動作である、実績可能であることを表します。

以上。

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