態文法:哲学でする動詞活用4
2018/08/18(土)
7.国語学文法が可能動詞、可能態を正しく説明できない理由
参考表(追加分)を見ていただきたい。
古語時代から現代へ動詞活用形が移行したとき(鎌倉・室町~江戸期)、
②、③上下二段活用は④⑤上下一段活用へ収れんし、変化なしの四段活用と併せ
て一般形式で表すと、①四段・一段活用の一行ですべての規則動詞の活用を表現
できるようになった。(国語学文法の表現には「ローマ字の一般形式」はないが)
→★動詞活用の転換期に、日本中でいろいろな試行錯誤があったであろうが、
・その錯誤の悪影響が今も続くものに、次の2つがある。
〇已然形の概念を変質?:→已然は「すでに然る」、「動作着手、完遂」の意味。
仮定形と名前を代えて、「已然は文語の飾り物に置去り」にしたかのよう。
〇安定・不変の四段活用を一時、二段化へ逆行?:→読むる、知るるで可能・自発?
・已然形概念の薄れが始まったのも悪影響したのか、転換期の試行錯誤で、四段
動詞の「読む」を→「読むる:yom[]u・[r]u」として、「字が読むれぬ」などの(打
消)自発・可能性表現とする試行例が出始めた。 錯誤で「終止形+[r]u」という
二段化へ逆行するような→D[・]u[r]u:読むる、知るる、の形態で、対象物の可
能状態を表す表現例が江戸期の文献に残っているらしい。
→当時は、二段活用動詞の「終止形+[r]u」をやめて、「連用形+[r]u」に取り替え
て一段活用動詞に大転換していく最中であった。(例:受け/受くる→受ける)
・四段活用動詞は、語幹自体が挿入音素なしのD[・]形態で事象化できるので、
歴史的必然の「已然形+[r]u」→D[・]e[r]uへ向かえるはずだが、まだ試行が成
熟してなかったか? 江戸後期・明治期まで待たなければならなかった。
(後遺症は現在も続いてるから深刻だ。 「古き錯誤の実例」が四段動詞で起きた
から、錯誤修正の可能動詞を四段動詞だけに認め、一段動詞の可能動詞を認めな
いという風潮が続く)
〇これが、国語文法が可能動詞を四段活用動詞にしか認めない根拠だろうと推測
する。
→★一方、当態文法の可能動詞の定義は簡明で独特なものだ。
〇追加表の①四段・一段活用を見て判るように、四段・一段は一般形式として共
通の一行で表記できる。つまり、[挿入音素]に違いがあっても後続する機能接
辞は同一である。
・活用前段の「未然・連用」では[挿入音素]の母音が動作識別に有効であり、一段
動詞は語幹末の母音が効力を利かすから、[挿入音素]は無音でよい。
活用後段の「終止・連体・已然・命令」では[挿入音素]の[r]接辞が事象識別に有
効であり、四段動詞は子音語幹のままで事象表現に効力を利かす。
・だから、四段動詞は語幹そのもので動詞の事象化に態応できる。つまり、態動詞
化への対応が語幹でできる。
実例:D[・/r]、D[・/s]で態派生に対応する。(当態文法の一般形式)
D[・/r]ar[]e[r]u:読まれる、使われる、渡される/覚えられる、来られる、
着られる。
D[・/s]as[]e[r]u:読ませる、使わせる、渡させる/覚えさせる、来させる、
着させる。
D[・/r]e[r]u:読める、使える、渡せる/覚えれる、来れる、着れる。
(D[・/s]e[r]u:読める、使える、渡せる、〇着せる/×覚えせる、×来せる、
古語に「見す」、「着す」が存在し→「見せる」、「着せる」が現在も使える)
→★国語文法は態派生に対して弱点がある。(かな分析はkana分析ができない)
未然形:D[a/・]に「れる/られる:異形態接辞」、「せる/させる:異形態接辞」
の助動詞を連結する、という「かな分析」の不都合さが現れる。
・さらに不都合の例:「さ入れ言葉」の錯誤:(未然形は打消接辞と連結するだけ)
未然形:D[a/・]は、子音語頭の打消接辞と組み合せての形態であり、母音語頭
の態接辞と連結するときは、D[・/r]、またはD[・/s]の形態だから、未然形と
無関係だ。(この法則を国語学文法の「かな分析」では全く気づいていない)
→「さ入れ」:読まさせていただく→yom[]as[]as[]e[i/・]te+いただく、
音素分析する態文法では、asが二連結した二段階の強制・使役と解釈するから
単なる代読なら「読ませて」でよい。「読まさせて」は孫受け、二段階指示の代読
の受託表現となる、と素早く解き明かせる。
→×ところが、国語文法に従い未然形:D[a/・]を万能だと信じ込んでいると、
「読ま・させて」いただく→yom[a]+s[]as[]e[i/・]te+いただく、と解釈して
錯誤を峻別し排除できない。 実際に著名な文法学者や教育者は峻別・否定より
も、「一段とへりくだった言い方と感じる」と言う。(市販本の対談・講演などで
の記述。 二段階使役とも、錯誤とも感じないで、「一段とへりくだった」表現と
無頓着な解釈をする?)
→態動詞の機能概念は、動作に関与する登場人・物の「数」と「態応の仕方:動作の
律仕方」を描写すること、だから、二段階使役の動作構造を感知できない国語文
法は致命的な不都合を抱えている。
→★正しくは、態文法の上記実例のような「事象形」とでも言うべき、
事象形:D[・/r]に「are」、「e」、の助動詞(受動、可能態接辞)を連結する、
事象形:D[・/s]に「ase」、「e」、の助動詞(使役、可能態接辞)を連結する、
という活用哲学が有効である。
(当態文法は、態の接辞に、ar/as/eを根源にして、その已然形として、are
/ase、があるのだと提唱する)
〇蛇足ながら付記する。
可能態接辞:e[r]u、は已然接辞:e、に由来してると推測する。
已然形:→已然は「すでに然る」、つまり「動作着手、完遂へ尽力」の意味があるか
ら、事象の完遂が成し遂げれる→動作可能の意味につながる、と推測する。
当然ながら、四段動詞、一段動詞の別なく動作完遂は有るのだから、同じ機能接
辞で描写するのが基本だろう。
(可能態接辞:e[r]uはいろいろな原動詞に組み込まれている:読める、見せる、
渡せる、割れる、立てる、泳げる、知れる。動作を完遂するために、(対人)他動詞
なら相手と協力し相互尽力して完遂する意味を含み、(対物他動詞、)自動詞なら
自然条件、対人条件、物理条件にうまく適って完遂する意味を含んでる)
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